右を向いても左を向いても「ルール」の押し付け合い、挙句の果てには「自己責任」だ。息苦しいったらありゃしない。このような状況をどのようにして整理し考え、今後の運動につなげていけばいいのだろうか。デイヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア』を翻訳した酒井隆史さん(大阪府立大学教授)に話を聞いた。(文責 編集部・吉田)
日本社会の問題は、「自分はどのような社会、どのような生き方が望ましいと考えているのか」を、問わなくなっているところだと思います。左派の中でも、せいぜい「今なにが可能か」を語る程度に留まっています。
朝から晩まで残業して、仲間と競争し合い、定年を過ぎても働き、SNSに縛られるような、そんな生活を本心から望む人は、そう多くはいないでしょう。しかしこの社会では、よりましな選択肢を迫る制度でしかない代表制システムをはじめとして、「自分が何を望むのか」という問いを立てることを忘れさせる装置、いわば想像力の封殺を標的とした装置が、あちこちに張りめぐらされています。それに絡め取られることなく、想像力を巡らせ、問いかけをやめない人を、私は「左翼」と呼びたいのです。「左翼」の核心は、危機の中でも想像力を限界まで行使する態度にあると思います。
社会運動はいつも二重の課題を背負っています。具体的な課題を解決する取り組みと、自分たち自身のあり方が、同時に未来の胚珠・萌芽でありえるという、そのような両面性です。後者を忘れると、人間を目的のための道具としてしか扱わないという、20世紀の悪夢が蘇ることになります。挫折した活動家がしばしば「自分は本当は何がしたかったのか」と述懐するのは、そのためです。
運動は何がしかを達成するための、道具であると同時に目的であるべきなのです。すぐさま目的を達成できない状況であればあるほど、そうなのです。すぐに答えにはたどり着けなくても、今とは違う人間関係のあり方、意思決定のあり方を探し続けることが必要です。現代資本主義が終焉する破局的な状況が、いつ訪れるか分かりません。とりわけ現代のように、先の見えない深い危機にある時には、パニックにのみ込まれることのない場所・言説を作る必要があります。
目の前の具体的な争点について現実的な対応を考えることも必要ですが、多様な人間関係の中で「自分は何を望むのか」という問いを開く場を創ることは、私たちの想像力を鍛えることになるでしょう。それには、互いのことを語って検討し合う場所や語彙が必要です。今後、コミュニズムやソーシャリズムなどの理念が果たしうる役割があるとすれば、それでしょう。
米国に「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」という、反レイシズムのアフリカ系の運動があります。若い世代を中心としたこの運動は、運動課題を引き継いで、刑務所の廃絶に取り組んでいます。中心人物たちは、刑務所の廃絶だけでなく、警察機構の廃絶も真剣に課題に挙げています。スローガンに留まるのではなく、例えば「修復的司法」(矯正/刑罰といった近代司法体系とは異なる司法・正義のあり方を追及する考え方)の理念と刑務所廃絶を結びつけて、現実化を丹念に模索しているのです。こうした想像力の行使、物事への根源的な問いかけ、そして実践との結びつきこそは、社会運動にしか担うことのできないことです。
新自由主義の下、肥大化していく人類史上最大の官僚制国家
新自由主義は、「規制緩和」や「自由化」のスローガンを掲げ、官僚批判・公務員批判を激しく行ってきました。しかし一方では、規則が増やされ、何をするにも書類書きが必要とされるようにされたり、手続きが煩雑にされたりしています。
私たち大学に勤める人間は、ほとんどが「書類仕事が増えている」「休みが少ない」と実感しています。例えば、かつては作業者の信頼に任されていたある書類の作成は、最近では50項目ほどのチェックリストを作っています。次にチェックのチェックをする欄があって、また事後にチェックをします。チェックばかりに意識が取られ、かえってミスが多くなると、皆がぼやいています。あるいは、かつては大学の空き教室は自由に使えましたが、今は教室に鍵がかけられ、書類がなくては使用することもできません。キャンパスで集会ができなくなったことも、京都大学のタテカン問題も、根底は同じです。
大阪では路上駐車が減りました。裁判所も、公務員も、一般企業も、現場の裁量の余地がなくなり、上からの押しつけとコンプライアンスで、がんじがらめになっています。官僚制国家が人類史上最大の規模になったのは、近代になって市場経済が導入されてからのことです。これは自由主義の自己認識とは大きく異なっており、新自由主義においても同様です。それどころか、「国家の肥大化に反対する」と見せかけて、そのイデオロギー的支配のもとで、官僚制は肥大化を続けています。
「官僚制」とは人間労働を数値化操作可能にし競争させる装置
官僚制の構造と精神は、公務員だけでなく民間にも横断的に浸透しています。このような新自由主義の下での官僚制/ルールの肥大化を、グレーバーは「全面的官僚制化」と呼びました。そしてそこには「リベラリズムの鉄則」が貫徹しています。支配的なイデオロギーに反して、資本主義的市場経済は、強力な官僚制なしには、一秒たりとも機能しないのです。
ここでいう「官僚制」とは、人と人、人と社会との関係を量化し、数値化し、操作可能なものに転換する装置です。しかし、人の働きには数値化できない部分がたくさんあるものです。
かつての労働組合があれほど勤務評価に反発したのは、労働が数値化できるものではないからです。数値で人を評価することは、労働を抽象化して分断し、競争させることにつながります。誰がどれだけ働いたかは、数字で表すことはできません。人の能力が発揮される形はさまざまで、直接的に利益に直結するものもありますが、「宴会係」のように、職場を明るくする人が欠かせなかったりします。人間関係は無限のニュアンスで構成されていますが、官僚制はそれを省略して簡素化し、操作しやすくするのです。
官僚制は人を「子ども」扱いし、「子ども」に留め置きます。たとえば、いまの大学は学生を「生徒」と呼ぶこともありますが、それは官僚制的な空間の外側にあった大学が「全面的官僚制化」の波をこうむっていることを象徴しています。かつて、たとえば革命に反対する保守派や奴隷制擁護者・レイシストは、民衆や元奴隷・他民族に同等の権利を与えない理由として、「彼らは子どものようなものであり、自由を行使できない」と考えました。それに対し、バックラッシュのなかでフランス大革命を最後まで擁護したカントは、「あたかも自由を行使する能力があるかのようにふるまうことが、自由を行使する能力を涵養する」と反論しました。
アナキストも同様の姿勢をとります。大学は程度の差はあれ、そのようなカント的空間として最近まで機能していたように思います。だからルールは最小限に留め置かれていたのです。ところが、今では大学もルールで強く縛られた空間となりました。(次号へ続く)